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入社式があって卒社式がない、歪な社会で生きていくために

このご時世において、僕は不思議に思ったことがある。

死ぬまで貧乏な人と、貧乏人を卒業できる人がいることである。
同じスタートラインに足並みを揃えていたはずの貧乏人が、全員が全員貧乏人として人生のゴールテープを切る訳では無いのだ。

その不可解な謎は、僕が社会人になったときから抱いていた。

スタートラインとゴールテープに関する話である。

スタートラインとゴールテープ

僕らは記憶に残らない頃から、何かに通っている。幼く、自力で立てず、自分の頭で考えられない頃から病院にお世話になる。

幼稚園や保育園。そして、小学校から大学、社会人1年目までは同じタイミングでスタートラインに立ち、ゴールテープを切る人が多いのではないだろうか。

全く意味の無い入学式をスタートラインだとすると、思い出づくりの卒業式はゴールテープである。

学校は問題ない。特に日本は、先生方のつまらん話を黙って聞いていたら卒業できる。ちゃんとゴールテープを切ることを、お上が国民に期待していることのように伺える。

じゃあ会社はどうだ。入社式こそ、多くの人が大きな部屋に集められ、スーツにネクタイを締めた新進気鋭の若者たちが、暇な社長の話を聞く。

疑問はここからだ。

入社式はあって、卒社式はない。みんなで肩を組み、上司の理不尽や残業に耐えた日々に耐え忍び、達成したプロジェクトの数々の思い出を振り返る機会などないのだ。

その理由は、若者が社会に出るまでにその足並みをそろえる教育が大体完了すると見込まれているからだろうと思っていた。

学校は目先のテストをクリアすることができれば、欠点による補修を受けずにいつか卒業できることが保証された。まるで、会社も直近の仕事をとりあえずこなしていけば人生というゴールテープを切れることが保証されているかのようだ。

だが、果たしてそうなのだろうか?

今までその人生の大半を保証していた企業の悪事が取り上げられている。
世間からの信頼を失って、株価が大暴落した会社もあった。

年功序列の世界で、悪いことを悪いと言えない文化が醸成された。あなたは本当に、自分の人生をそんな会社に委ねていいのだろうか。

今までは、月給制とボーナス仕事と数字、家庭に伴う様々な費用の請求というの毒に浸され、その世界で偽りの快楽を得る人が多いように思える。だって食っていけるから。とりあえず会社に行けば給料を頂ける。

これはまるで、始まりがあって終わりのない悪夢である。簡単に抜け出すことなどできぬ。

この悪夢から抜け出すことができる人

さて、飴と鞭の例を悪い意味で捕えないでほしい。これは、雇われて勤める人の目線を客観的に捉えた意見だ。

逆に捉えれば、アメとムチを正しく使えば人を使えるということだ。太古の時代から続く御主人様(Master)と奴隷(Slave)の主従関係である。

使う側からすれば、こんなシンプルなフレームワークに頼るだけである程度コントロールできるのだから、リスクマネジメントしやすい。はみ出た杭は叩き潰すか、抜いてしまえばいい。

そう。抜け出す人がいるのだ。この考え方が大切である。タネ銭を貯めて、サービスや商品を人様のカネと交換することができるようになれば、勤め人のループ脱出の目標を叶えることができるだろう。

自分の頭で考えることの大切さ

この悪夢から覚める方法はただ一つ。自分のために自分の資産を使わないことだ。

貧乏人や貧乏人の素質がある人は、自分のために時間やカネ、技術資産を使おうとする。それは自分にとって有益だし、そのうまい汁を啜るために生きていると言っても過言ではないだろう。

ただ、端から見ればそれは消費であり、資産を増やす経済活動ではない。自分が持つ資産を減らしているだけなのだ。

しかし、ここで自分の頭で考えてほしい。自分の資産を他人に充てながら消費することはできないだろうか。

例えば、「食事」をするとしよう。友達の相談に乗るため、外食をする。ここでは、「カネ」と「時間」を消費するが、増えるものもある。それは、友達からの信頼だ。

時間の使い方やアドバイスの質によっては、食事代を奢ってくれるかもしれないし、また誘ってくれるかもしれない。信頼を増やすことができる。

自分としては時間を有効に使いたいし、外でご飯も食べたい。それを、「自分以外の人も同じように考えているかもしれない」って自分の頭で考えることができれば、一歩ずつ貧乏人卒業の歩みが進んでいくのではないだろうか。

僕も一人の人間として、自分の頭でいつも考えるような,
思慮深い人に自分の資産を遣っていきたいと心から思う。

レダ

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レダ