世の中にモノが溢れかえっているシリーズ第二弾。
周りを見渡せばコンビニがあり、
あり溢れる選択肢の中で何かを選ぶ時、貧乏人は強いって話をした。
▼ モノが溢れている情報大航海時代では、貧乏人が強いよって話
そもそもモノが多すぎる。なぜ、供給過多の世の中になってしまったのだろうか。
自由市場経済のマーケットにおいて、カネと交換出来るモノに焦点を当ててついて考えてみた。
例えば、ボールペンひとつとっても、種類が多すぎる。
これだけ分岐がある中で、自分の目的を達成できるボールペンを選ばなければならない。
これは、正直なところの消費者心理である。。
お前らが作ったものが多すぎて、俺たちは選べないんだ
と。
至極その通りである。これは、モノを選ぶ人の心情。作り手ももちろん、買い手の気持ちを考えてモノを作っているはずだ。
では、作り手たちはどのようにモノつくるのだろうか。
僕は基本的に「人々の悩み事を解決するため」にモノが作られると考えている。
例え話として、弥生時代。
お米をつくって収穫したいと思った時、田んぼを耕す必要がある。
ここで鍬(くわ)という道具が開発され登場する。実際に耕す画を想像して欲しい。手で耕すなんてことは、具の骨頂であることは明らかだ。。
体を悪くするし、耕しきるまでにとてつもなく時間がかかることは目に見えている。
そこに目をつけた、ひとが道具を開発するのである。
頭で考えても、実際に使ってみるとわかる。鍬を使って耕すことは、圧倒的に手で土を興すよりも快適で楽チンだ。
このように、人の困り事に商機は存在し、商品が出来上がる。
ここで、疑問が浮かび上がる。
なぜ全く売れないものや、必要のないモノまでが、マーケットに犇めきあっているのだろうか。
0から1のモノ。僕はこう考えている。
そのものが生まれたことによって生産性が向上し、人々の暮らしが豊かになるモノだ。
先程の田植えの話でなぞらえて言うと、鍬を開発した事実はこの0から1のモノに当てはまる。
鍬を作ったことで、以下のメリットを享受することが出来るようになった。
この2つのメリットは、鍬がなければ得られなかったものだ。もちろん市場価値は高い。
だからこそ、鍬は爆発的に普及し、今でも僕の実家で使われている。
お次は、1から10のモノ。
これは、0から1のモノが世の中に生まれていることが前提。そのうえで、生産性向上に寄与したモノと考える。
なんと言っても僕の実家で活躍する鍬は木と石でできている。劣化も凄まじいし、なんと言っても重い。
そこで、ステンレスの登場だ。僕の家にはなくて、お隣さんの家にはあった。
もう腰が抜けるくらい軽い。鍬としての本質的な機能は変わらず、確実に生産性向上に貢献するような改修の結果と言えよう。
1から1のモノは、その名の通り本質的には変化していないモノ。
これは僕も見たことがないのだが、鍬の柄の部分にかっこいい彫り物がされていたり、肌に馴染む木が使われていたりして値段が高いものだ。
0から1の鍬と性能的には、何も変わっていない。
もっとわかりやすい例でいうと、スマホケースだ。スマホケースの存在理由は、デリケートなスマートフォンを衝撃から守ること。
その目的を果たすのであれば、ぶっちゃけ100円均一で売られているものでいいのだ。
だが、市場に出回るスマートフォンケースは枚挙に遑がない。それはなぜなのか。
モノが増え続けている理由は、人々の趣向に合わせたニッチな商品を皆が開発・デザインするからだと考える。
本質的な物の価値を創造するのではなく、マーケットに出回らない唯一無二の商品を作ることで付加価値をつけようとする算段ですな。
ある人からみたら1円の価値も感じないがモノが、ある人が見たら数千円の価値があるモノ。此のような商品の母数が,
技術革新によって増え続けているのだ。
どうしてもオーダーメイドの鍬が欲しくて、材料からこだわって発注する人もいるかも知れない。たかがスマホケースにLOUIS VUITTONのロゴが欲しい人もいるはずだ。
自分が本当に欲しいものが何か、知ることができれば、後は選ぶだけ。
とてもいい時代に僕たちは生きているんだ。
モノがなくて困っていた時代は超え、モノが多すぎて困る時代だ。その中でモノが増え続けている理由について考える。
そして、物の価値の基準を自分の中で設けることはこれから生きていく上で大切な術ではないだろうか。
明日も更新するから、待っててちょ。
Adios.