僕たちが、無敵の人にならないためにすべきこと

無敵の人が世の中に降臨した。カネがない、友達や家族との関係も良くない、失うものが何も無い人だ。罪を犯したところで、消える資産が大したことない。この人たちが、感情のままに凱旋している。

この無敵の人の感情の振れ幅の所為で、赤の他人が迷惑を被る。場合によっては、命さえ奪われてしまうのだ。他人事ではない、甚だしい社会問題である。この無敵の人たちは、なぜ生まれてしまったのだろうか。

GiverとTaker、そして恋愛になぞらえて、この無敵の人について考察する。

Giver と Taker

世の中には2種類の人間がいる。Giver(与える人)とTaker(奪う人)だ。この考え方をできる人か出来ないかで、人生の豊かさが180度変わると言っても過言ではないと思う。自分が「無敵の人になるかならないか」という大きな岐路に立った時には、正しい判断を下すための基準になるだろう。

Give(与えること)ができる人にはヒト、モノ、カネが集まる。電車の席を譲ることから、返ってくるかどうか分からないカネを貸すことまで、自分の時間やカネなどの資産を相手のために使う、与える行為を指す。

与えれば与えるほど、また与えられるスパイラルを産む。そのエビデンスは前澤友作氏が証明してくれた。

対して、Takerは与えることをしない。Takeは奪うこと。与えられたものを与えられたまま野放しにし、そのうちGiveされることはなくなる。すると、人のカネやモノ、時間や体験を奪ってゆく。人から奪い続けることで、自分を背水に追い込むスパイラルに飲み込まれて、いずれ無敵の人に降格する。

だが、Takeし続けて無敵の人になった人ですら、生まれたときは奪われていたわけではない。人は生まれてからずっと与えられ続けるのである。

人は与えられて生きてきた

まずは、最低限生きていくための知識を与えられる。僕たちは生まれた時、ただ泣き喚くことしか出来ない。両親や兄弟、病院の方々のGiveを受け続けて初めて、地に足を張って立つことができる。言葉を与えられて、モノの食べ方や危険なものの見分け方などを教えて貰い、命を紡いで来た。

幼稚園児や小学生が御両親への肩叩きや皿洗いなどする姿は、まぎれもなくGiveである。初めて自分が親にGiveを返すことが出来る。そりゃ親御さんは、嬉しい限りでございますな。

前澤友作氏のような、Giverな人たちの特徴を見ると、必ずしも見返りを求めてしているわけではないということだ。上記の例でいうと、親は子供に対して対価を求めてGiveしているわけではないことは自明だ。子供を育てることはカネがかかるし、手間も時間もかかる。

それでも、子育てをしたいという自発的な内的モチベーションの赴くままにGiveするのだ。

僕がGiveを継続して得たもの

GiverがなぜGiveを続けるのか、その理由については僕の中で結論ができている。それは、自分の人生を豊かにするためだ。

人間関係をシンプルにできる

小中高とは異なり、大学生や社会人のプライベートな人間関係は自分で選択することができる。性格が合わない人とは付き合わないほうがいいし、たくさんの知り合いを増やすことが生きがいと感じる人もいる。

自分が関わっていく人がどんな性格をしているかを公平に測る方法の一つとして、Giverであり続けることがある。

まず自分が相手に対してGiveをする。その後、Giveがあれば関係継続をすればいい。逆に、GiveをしていてもGiveされなかったら切ればいいし、Giveを返されないままTake(要求)をされるようであれば、関係を構築する必要はない。

当たり前のことだが、こうして人間関係を整理した結果、非常にシンプルになった。無駄な人付き合いもする必要がなくなり、余った時間を自分がやりたいことに充てることができた。

心の余裕

他人をGiveするようになると、懐が広くなる。自分がGiveをしている中で、もちろんすべての人がGiveを返してくれるわけではない。具体的な行動をもって返してくれる人がいれば嬉しいが、それは一握りである。

同時に、他人からtakeするときはとても慎重になる。例えば、女性とデートするときだ。男は虎視眈々とセックスを狙ってデート誘うが、これは同時に相手の時間を奪っていることになる。決して女性から与えられているわけではない。

であるならば、デートに来てくれたことに感謝して、女性を愉しませるべきではないか。僕はこう思うようになった。がつがつする自分の気持ちを抑えて、他人を気遣うことを意識する癖がついた。それから、女修行の成果が上がったことは秘密だ。

自分のためではなく、他人のために息をしよう

自分の事しか考えられない人は、モテないしいい友達もできないし、ひょっとしたら無敵の人になるかもしれない。これはもちろん、僕にだって十分にあり得る話だ。というのも、これは当人の選択の積み重ねによる結果だからだ。人から必要とされる努力ができなければ、他人は自分を信用などしないし、必要とすることはない。

ただ、いきなりGiveをすることは誰にでもできることではない。今すぐ、誰にでもできることはただ一つ。

与えられたGiveに対して、自分の精一杯のGiveを返すことだ。


結構抽象的な、哲学的な話を記事にした。失うものがない人に奪われた人は咎めようがない。こんな悲惨なことはない。事件を見てそう思った。自分の人生を振り返ってこれからどう生きていくべきか改めて再確認できた。

明日も更新するから、待っててちょ。

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