世の中には「イケメン」と「ブサイク」という相反する言葉がある。
顔の出で立ちが整って居る人と、そうではない人。
可愛い女性と可愛くない女性。
生まれてから、非モテ男から全てを与えられて生きていく女は存在する。
幼い頃はただ笑って愛嬌を振る撒いておけば可愛がってもらえたが、歳を重ねると状況が変わってくる。
それは自我が芽生えて、身体的な特徴も個々人で変わり、趣味趣向も十人十色に色が染まり始めるからだ。
それでも、偏に男に愛される女として人生を全うしようとする人がある一定数居る。
神より一物を賜った女の人生について、考える。
街を歩けばひたすらに声がかかり、マッチングアプリを開けば蜜壷に群がる男どもがいる。
選ばなければ、おそらく一生を通して男に困ることはないタイプの女性だ。
小学生のときは足が速い男。
中学生の頃は、成績が良くて社会に反抗している男。
高校生には偏差値の高い大学を目指す、体育会の部長の男。
大学生からは、1円でも多くの金を稼いで貢いでくれる男。
プレゼントを貰うことなんて当たり前で、誠心誠意の気持ちを表してくれるのも当たり前。
自分が何もしなくても男がすべてを供給してくれる。
こんな女性が居ると女友達から聞いた。
「こんなふざけた女が居るのか」
と思わざるを得なかった。
華子と仮名をつけよう。
華子は絵に描いたように男に依存して生きてきた。
男のカネで雨風を凌ぐ家に寝泊まりをし、食事をし、艶めかしい衣服を身に纏っていたそうだ。
確かに橘玲先生の『言ってはいけない 残酷すぎる真実』によると、美貌格差なるものが存在する。
美人は8%の利益を享受し、不美人は4%の損を被るという。
年収300万円の20代の女性はだと以下の通り。
美人: 24万の利益
不美人: 12万円の損失
基本的に、女性の若さには絶対的な価値があるため外野からは見えづらいが、女性の世界では顕著に数字で格差が存在するようだ。
生きているだけで、美人と不美人で1年あたり36万の格差を生むくらいだから、ばかにならない。
しかしそれも過去の話で、今は亡きかつての昔話に華を咲かせていたそうだ。
まるで平家物語の祇園精舎の冒頭のようだ。
祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。
引用:『平家物語』巻第一 祇園精舎 冒頭
沙羅双樹の花の寿命は1日で朝に咲き、夜には落ちるそうだ。
映画のエンドロールのように、儚げに花弁を散らしながら朽ちていくことなく、突然に花全体が落ちて終わりを告げる。
この儚さが平家一門の「盛者必衰」を表していると言われている。
どれだけ咲き誇ったとしても、美しさを失った花は時代の徒花として人々の記憶から薄れていく。
残念ながらこれが現実だ。
さて、今まで華々しく女として生きてきた華子だが、これからは大変である。
自分で働いて稼いだこともなければ、ひとり暮らしをしたこともない。
人のカネを得る代わりに、対価として自分の若さを売って生きていた。
だが若さと美貌の価値が底を打ち、自分が満足する水準の男に好まれなくなったという。
加えて、男から見捨てられたタイミングで持病が悪化し、僕の女友達に縋ろうとしているようだった。
こんな状況ですら、自分で問題を解決しようとするのではなく他力本願な華子の姿勢には、今まで男たちが犯した罪の重さを感じる。
女をカネやモノで買おうとして、それに糸目をつけずにつぎ込みまくった男たち。
このカネを持つ非モテ男が華子という寄生虫を作り出したのだ。
戦慄が止まらなかった。
華子がこれからどうやって生きていくのか、僕の女友達はサポートするのかはわからない。
ただ僕は、人のために良かれと思って行う行為が、ときに人生を狂わすことを知った。
カネと女は男にとってのキーワードである。
人生をかけて追い求めるからこそ、それぞれに秘めたるパワーは凄まじい。
扱い方を間違うと、取り返しが付かないことになる。
やはり女修行は、男にとっても女にとっても大切なのかもしれん。