ふとインターネットの海を覗くと、非モテに対する悪口が後を絶たない。
もちろんその対象には童貞も含まれるだろう。
まるで、村八分のように男女揃って非モテいびりをしているようにしか見えない。
今でこそ、僕はこうして偉そうに童貞たちに対して発信をしている。
それも強めの口調で。
それは、彼らを蔑みたいわけでもないし、バカにしたいわけじゃない。
僕が童貞に対して発信し続ける理由を語る。
甘い言葉では人は変わることができない
僕たち人間にとって、自分の中の常識を疑い、打ち破ることは難しい。
しかし壁を打ち破った経験が、きっと誰しもあるはずだ。
自転車を補助輪無しで運転できるようになることや、九九を覚えることもそれに当たる。
その原動力は何かと言うと、感情だと僕はおもう。
他人ができているからとか、先生に怒られるとか
悔しさや憎しみなど、必ずしもポジティブな感情とは限らないかもしれない。
だとすれば、僕は童貞を卒業するためにも感情をうまく使うことが大切なのではないかと考える。
何より、僕自身がそうであったからだ。
親友に怒られて始めて、1歩を踏み出した
僕が本気で童貞という現状を打破しようと一念発起したきっかけは、親友による叱咤激励である。
叱咤激励とは
大声や厳しい言葉で叱りつけて、励ますこと
「女と交合うことについて、何がコンプレックスなのか。」
という親友の問いに対して、童貞の戯言を返してしまった。
えっちすることは命を運ぶことだとか、神聖な行いだとか。
それに対して、彼は僕を本気で叱ってくれた。キツい口調で。
普段温厚な彼から放たれた強い言葉が、僕のオスを覚醒させた。
悔しさと、情けなさ。
悔しさ
性別も生きてきた環境もさほど変わらない友達が、童貞じゃないこと。
そして僕は童貞である事実。
この事実を改めて再確認せざるを得なかった。
女ひとり獲得できないような男であることがただただ悔しかった。
情けなさ
当時、僕も親友も社会人。
中高生からみたらいい大人である。
そのいい大人がちっぽけなことで真面目に叱られている。
いや、叱らせてしまった。
普通は自力でどうにかする問題なはずなのに、結果的に他力に頼ってしまった自分が、とても情けなかった。
この2つの感情によって、僕は本気で女性を獲得しようと思うことができた。
今から振り返ると、先の言い訳はセ○クス出来ていない自己の正当化でしかなかったんだなと思うばかりである。
自分が可愛いのは当たり前。
自分の行いを正当化しようとすることは簡単だが、現実を歪めては何も生まれない。
自分の感情を客観視することが大切だろう。
女性に愛されるということ
僕はこの強い感情に導かれ、童貞を卒業することができた。
僕がこうして童貞に対する意見や叱咤激励を発信している理由は、自分自身が童貞を卒業できたことを自慢したいからではないし、童貞を蔑んだりバカにしたいからではない。
それは自慢するようなことではなく、ヒトとして、男としてふつうの事だ。
童貞を卒業して本当に良かったと思えることは、真の意味で女性に愛されるようになったことだ。
これは僕が童貞を卒業して初めて気づいたことだが、童貞はどう頑張っても女性に愛されることは難しい。
恋愛コラムなどの情報によると、女性の心と身体が通っていると表現されていることがよくある。
これは結構あたっていると思っていて、僕も童貞時代の彼女に愛想を尽かされてしまった理由と合致したと感じた。
セックスレスで円満が崩れて、離婚してしまう夫婦が居ることも事実だ。
女性に愛されたからと言って、直接的な自分の収入が増えるわけではない。
だが、ヒトとして、男として普通に女性から愛されることは嬉しいことだ。
心の綺麗ないい女であればあるほど、僕たちのQOLは確実に向上するだろう。
僕は心の底から、一人でも多くの童貞を卒業して、生身の女性に愛されてほしいと思っている。
家族ではなく、血もつながっていないような、全く違う人生を歩んできた人に愛される経験は、もちろんカネでは買えないし、天から降ってくるものではない。
ある程度、犠牲を払いながら挑む戦いの中に一つの愛がある。
一度その境地に立つことができれば、今までの努力は必ず報われるだろう。
明日も更新するから、待っててちょ。
Adios.