「本を読むこと、それは書き手との対話だ。」
こんな言葉を聞いたことがある。
対話。言葉を媒体として、人と意思疎通を図る方法である。
かつての僕であれば、狂犬のように噛み付いていただろう。
長きに渡って書物に向き合えなかった読書童貞が、一皮剥けて人並みに本を読めるようになった理由を語らせて頂く。
本に対して一方的な嫌悪を抱いていた幼き頃の僕。何故ここまで本を嫌っていたのだろうか。
先の言葉の”噛みつき”について。
仮に著者とのコミュニケーションの構図を推し量るとする。
読書とは、著者が主張する内容を文字に起こして、読み手に対して非可逆的に伝える行為だ。
これでは、言葉のキャッチボールではなく、言葉のピッチングマシンではないか。
常に1対nのコミュニケーションをとっていた幼き僕にとって、一方向的な発信は自己の押しつけだと思い込んでいた。
対面のコミュニケーションは相手の顔や仕草、反応を伺いつつ、進めていくコミュニケーションだと考えていたからこそ、読書は鼻に付いていた。
義務教育を受けていた小中学の頃には、随分と読書を押し付けられた。外的モチベーションは本当に僕には合わない。
どれも自分がやりたいと思ったことは一度もなく、やる意味を見言い出せなかった。それでもやらねばならなかったことが、何よりも苦痛だった。
1文字も頭に入ってこない。
こんなことをしているから、国語の偏差値が50を下回る大学受験の結果になった。
そんな低スペの僕にも、活字が記された書籍と邂逅する日がやってくる。あのきっかけがあったからこそ、今の毎日少しだけ読書する僕が居る。
僕は重度の活字アレルギー持ちだったため、克服するためには2つのステップが必要だった。
僕は塾講師のアルバイトも、家庭教師のアルバイトもしたことがある。
その噂を聞きつけたのか、親類から国語の成績の上げ方を懇願された。
普段なら「専門じゃないから、下手なことは言えません」と断るが、流石に断れなかった。
僕「読書がいいですよ!」
言ってしまった。自分で経験したことのないことを。
下手なことを言えないが、僕が国語の勉強で唯一継続できなかった方法にすべてを託して伝えた。
それから2年後、その親類は旧帝一工神レベルの国立大学に合格した。
冗談抜きで、空いた口が暫く空いたままだった。その親類によると、読書を始めてから国語以外の成績も伸びたそうだ。
僕はそこで初めて、読書をすることのメリットを知ったのだ。
読書のメリットを知った間もなく、卒業論文を執筆するシーズンに突入した。成績が必ずしも良くなかった僕も、卒業論文だけは真剣に打ち込みたいと思った。
何故か。もちろん先輩から回されてくる論文をコピーしてちょっと手直しして、提出する方法もあった。
曲がりなりにも苦労して入学した大学だった。
自分の力で手に入れたキャンパスライフを自分の手で幕を下ろすために、自力で論文を書き上げたいと考えたのだ。
論文を書くためには、先行研究や書籍に気の遠くなるほど目を通さねばならない。
かなりだるい作業だ。
でも、やると決めたらやる。昔のように誰かに矯正されたわけではないから。
その経験が合ったからこそ、今何の抵抗もなく読書をするようになった。
「本を読むこと、それは書き手との対話だ。」
まず、この言葉の意味を知ることができた。というか、解釈できるようになった。
本には自分のレベル似合った本もあれば、格が違う本がある。もちろん、漫画のように流して読むだけで十分な簡単な本も存在する。
このように、自分の中で本を評価することも書き手のとの対話の一つなのだと解釈できるようになった。
今でも、自分のレベルが低くいが故に、読むことが恐れ多いと感じた本は本棚に奉納している。
それは書籍中の情報の純度が高いことだ。
情報が有り余る時代に於いて、ある程度信憑性が担保されている情報メディアは間違いなく本だ。
本を出版するためには、時間とカネと人が必要だ。しかも、ブログやTwitterと違ってとんでもない量の文字を推敲し、起承転結を組まねばならぬ。
目が眩むような仕事の果に出版があるのだが、クソみたいな文章を書くと叩かれる。
その仕事体力と、覚悟がある知識人にのみ、いい本の出版が赦されるのだ。
そうやって出来上がった本を、あなたは「ブログやTwitterよりも信じられない」と果たして言えるだろうか。
読書について、思うことを書いた。
趣味というか、エンターテイメントの一つであり、情報へのアクセス方法の一つである読書に向き合えて、心から良かったと思える。
明日も更新するから、待っててちょ。
Adios.