医療とは何のためにあるのか。
医者は何のために自らの手を振り翳すのか。
それは間違いなく、生を諦めきれない人のため、人の寿命を伸ばすためであろう。
病気を患ったら病院に行き、処方箋を処方をされて自分の寿命を短くしないように努める。
言い方は極端ではあるが、こうして僕たちは医療に頼り健康を維持していることには間違いない。
これは悪いことではない。
なぜならば、大抵の病は医療技術の進歩により完治するからだ。
だからこそ、いちいち死ぬことについて考えることもないし、健康体に戻ることが当たり前だと認識している。
現代に生きる僕たちは幸せである。と、健康体の僕は思っていた。
物事は常に表裏一体。いい側面と悪い側面を併せ持つ。
だとするならば、医療技術の進歩によって得られた弊害とは何なのか。
当書籍はそんなことを問いかけてくれる良書であった。
よく生きることについて、読書感想を述べるとともに考える。
※ネタバレも含みますので、悪しからず
命を繋ぐ者、命を断つ者
世の中には2種類の人間がいる。
人の命を紡いでいく人と、人の命を削る人だ。
紡いでいく過程で再び命の息吹を吹き込んだり、新たな命を誕生を見届ける人もいるだろう。
逆に人の命を奪ったり、人生の時間を短くするような人もいる。
当物語は医療と言う業界の、医師という世界に限って光と闇、そしてその中間の3人の主人公を立てた。
人の命を繋いでいく主人公は福原、ときに人の命に終止符を打つもう一人の主人公は桐子。
そして、何者の医者でもない音山
光の主人公・福原と、普遍的な医者の音山のイメージは難くないだろう。
福原は、何があっても病気からは逃げない。患者も逃さない、一生情熱の炎が消えないタイプの人間である。
どんな難病だったとしても、その可能性が0%だったとしても、1秒でも人が生きられるのであれば自分を捧げることができる医者だ。
その対極に陣を構える桐子。
死神と揶揄されるほど、死に通った医者である。
この物語における死神・桐子とは、人の命を奪う医者ではない。患者と人生について向き合い、最良の人生の選択肢を提供する医者だ。
ただ、そのやり方が不器用というか、あまりにも目立ちすぎるために院内の先生たちからは好かれていない。
その狭間に立つのは、音山である。福原と桐子とは大学の同期であり、彼らほどの極端さはなく自分が何者かもわからないまま人の命を紡いでいる。
人はどう足掻いても、死からは逃れられない
この物語は、大きく分けて3本建てである。
- 1章 – 死神・桐子の立ち振舞と、患者が下す人生の結論
- 2章 – 音山が患者に受け継いだ、普遍的な医者だからこそ救える人の命もあるということ
- 3章 – ただ生き延びることだけじゃない、十把一絡げにできない僕たちの人生
この小説だけでも、3人も人の命が途切れる。
この3人に至っても、色々な選択肢が残されていたと思う。
どの患者も完治は難しい、或いは生存率0%という厳しい現実を突きつけられる状況である。
その状況の中であれば、自分の命のリレーを自ら断つという選択肢も考慮するべきだろうと個人的には思う。
作中にも出てくるが、癌の進行が末期の患者が居た。
お歳を召され、体力的な事情も若者とは異なる。かなり進行した癌を患っていた。
癌の闘病生活が如何に苦しくて、孤独で、そして人を狂わせるかを表現するかのような描写がされており、読み手の僕も胸を抉られた。
その患者は桐子のカウンセリングを所望し、死神の助言を求めた。
そしてその結果、次の日に退院し1週間後にはこの世を後にした。
もちろん、当直医ではない桐子の助言によって患者が死んだのであるから、桐子は当直医から責められる。
一秒でも生きてほしいと望まれていた遺族からも恨まれる。
カウンセリングを受けた当の本人も、心身ともにこの世に居ないために桐子をフォローする人も居ない。
非常に辛い立場である桐子は強く言い放った。
「よく考えてみてください。僕たち医者は患者を救おうとするあまり、時として病気との戦いを強いるのです。
最後まで、ありとあらゆる方法を使って死から遠ざけようとする。患者の家族も、それを望む。
だけどそれは、はたして患者が本当に望んでいた生でしょうか?医者や家族の自己満足ではないか?
患者が他人の自己満足に巻き込まれ、死に敗北するようなことがあってはなりません。」
ごもっともである。
肝心なことは、外野の欲望を患者に投影することではない。
患者の生き方を尊重してその手助けをすることではないかと僕も考える。
その上で病気を治すために治療に打ち込むという方法が一つ、選択肢として浮上するのだ。
案の定、この患者ファーストの考え方は福原には焼け石に水である。
物語が進むに連れて、両極端な福原と桐子の結末がどうなっていくのかはこの物語の見ものである。
`よく生きるため`に僕たちにできること
ここで突然の私情ではあるが、2019年が幕開けした途端に、僕が知っている後輩の一人が人生の幕が閉じた。
享年、24歳。
それは僕にとって、あまりにも儚く、あまりにも残酷な置き手紙だった。
2018年の忘年会に、元気に談笑する彼の姿を瞼の裏に浮かべることなど誰ができようか。
所謂、突然の死。
この物語では語られることのない予期せぬ、予期できなかった死である。
病気だとわかれば、タイムリミットまでのおおよその時間を算出することができ、対策を打つこともできる。
しかし、世の中にはそんな悠長に人を待ってくれない死も存在する。
とても残酷であるが、これが現実である。
逆算できない、コントロールできない死と僕たちはこれから向き合って生きていかなくてはならないのであるが、果たしてどうすればいいのか。
人生半ばで、この世を後にした彼から投げかけられた質問に対して、僕は以下の答えを導いた。
常日頃から、自分を裏切らずに生きていくこと
ありきたりで、薄っぺらい言葉かもしれない。他人から見ればそうだ。
言葉を並べることは行動するよりも簡単だろう。
第三者がそう思うのは、自分自身が当事者ではない限り仕方のないことだ。
だからこそ、この結論である。明日自分が死ぬかもしれない。
明日自分にとって、大切な誰かが死ぬかもしれない。可能性はゼロじゃない。
であるならば、死にゆくのが自分であろうが自分にとって大切な人であろうが、僕は、かっこいい自分や胸を張って堂々としている自分を常日頃から体現したいと思う。
どんな事象が起きたとしても、それを後悔しないような生き様であり続けることでしか、突然の死に対しては対処できないと考えているからだ。
毎日、いつやってくるかわからない死について考えなくてもいい。
ただ、いつ死が訪れてもいいように日頃から考えておく必要はある。
たとえそれがどんな結論だったとしても、自分にとってよく生きることであればそれが正解なんじゃないだろうか。
今年に入って、もうすでにたくさんの人の墓が立った。
有名Youtuberや人気バンドのメンバー、芸能人、通勤電車に身を投げる人。
平成最後の墓場となってしまった2019年の始まりであるが、明日は我が身と思い、僕は後悔しないように生きていく。
明日も更新するから、待っててちょ。
Adios.